お袈裟の功徳
住職の日記先日、法務の合間に、保育園へ僧侶の格好のまま行った時に、三歳になる園児から「園長先生、これ何?なんで、これつけるん?」と尋ねられました。保育園へ僧侶の格好のまま行くことは、日常茶飯事のことですが、子どもには、園長先生の格好が、いつも不思議に写っていたのでしょう。子どもが尋ねてきたのは、首からさげている輪袈裟のことでした。和装自体も、今の子ども達にとっては珍しいことですが、首からさげている様々な色がついた輪袈裟は、もっと珍しいことだったのでしょう。
僧侶が首からさげている輪袈裟は、正式には畳輪袈裟といい、本来の袈裟を小さく畳んでいるものです。法要以外の移動するときや食事に招かれるなどのときは、正式な袈裟を畳んで首にかけ、動きやすく被着しているのです。形は似ていますが、御門徒の方々が、ご法事やお寺にお参りするときに首にかける式章とは、まったく異なるものです。式章は、肩衣の代用です。昔は、ご法事やお寺にお参りするときは、正装を整えてお参りしていました。その正装が、肩衣を着けることだったのです。式章をかけることで、特別正装を整えなくても、正装を整えているという意味があるのです。
しかし、輪袈裟は、肩衣の代用品ではありません。あくまで袈裟なのです。袈裟は、本来インドの言葉でカーシャーヤと言い、僧侶が身につける衣装のことです。
お釈迦様は、三十五歳でお悟りを開かれて以降は、いわゆる生産活動は一切されませんでした。命というのは、その日一日のこととして大切にされたのです。食事も、午前中に口にする一食だけでした。しかも、その食事は、托鉢によって恵まれた少量のものでした。その日一日だけ命を繋ぐことのできる必要最低限の食事です。明日の分まで口にされることはなかったといいます。ちなみに、毎朝、お仏壇にお供えするお仏飯は、午前中のうちに下げるのが正式な作法ですが、これは、お釈迦様の食事の形からくるものです。お釈迦様は、常に真理の道を求められ、あらゆる命に配慮し続ける毎日を歩まれたのです。
そんなお釈迦様が、身につけておられた衣装が、袈裟の原型となります。お釈迦様は、身につける衣装にも、他の命への配慮をされ、けっして贅沢なものは身につけられませんでした。お釈迦様が身につけておられた衣装は、糞掃衣(ふんぞうえ)とも言われ、死人を包んで墓に捨てた布やネズミにかじられた布などを繋ぎ合わせたものだと言われています。インドでは、身分の低い人は火葬されず、遺体を布でくるみ、そのまま白骨化するのを待ったのです。そういった役目を終えた布を拾い、使える部分を綺麗に洗って、糸でつなぎ合わせて身に纏っておられたのです。このお釈迦様の衣装は、中国や日本へと、そのみ教えが伝わるにつれて、悟りを目指す仏道修行者の標識となり、袈裟として尊ばれるようになっていったのです。
親鸞聖人について、袈裟に関するこんなエピソードが伝わっています。親鸞聖人が、関東におられた頃、鎌倉幕府において、一切経の校合が計画され、学識豊かな学僧の一人として、親鸞聖人が鎌倉幕府に招聘されたことがありました。その慰労の宴席でのことです。その席には、後の第五代執権となる北条時頼がいました。この時は、まだ九歳だったといいます。その九歳の時頼が、袈裟を着けたまま魚を食している親鸞聖人に尋ねます。「他の学僧達は、みんな袈裟を脱いで魚を食しているのに、あなただけは、なぜ袈裟を着けたまま魚を食しているのですか?」他の僧侶達は、魚の肉を、殺生された不浄なものと見なし、神聖な袈裟が肉食によって汚れることを畏れたのです。時頼の疑問に対して親鸞聖人は、次のように答えられたといいます。「私は、髪を剃り、袈裟を身に纏ってはいますが、心は煩悩に染まり、不殺生戒すら守ることができず、生き物を導く智慧も徳もない愚かな者です。せめて、この魚たちが、私が身につける袈裟の功徳を通じて、仏様のお心に触れ、この苦しみから解放されることを願い、袈裟を着けたまま食事をさせていただいております。」親鸞聖人には、けがれの意識よりも、命を奪うことの罪の意識と、奪わざるをえなかった命に対する慈しみの心があったことが分かります。そして、僧侶が身に纏う袈裟は、この煩悩のまっただ中に働く仏様の悲しみと慈しみの心を表わすものとして、大切に尊ばれていたことも分かるでしょう。袈裟に興味をもってくれた子ども達にも、仏様のお心が響いてくださることでしょう。
お釈迦様以来、大切に受け継がれてきている様々な様式の中にも、仏様の心は満たされています。仏様のお心に触れていく毎日を大切にしていきましょう。