お念仏と道草
住職の日記先日、ある御門徒さんから、幼少時代の道草のお話を聞かせていただきました。小学生時代、まっすぐ家には帰らず、必ず道草をしながら帰っていたそうです。しかも、その道草をする場所が、お寺だったといいます。一緒に帰る友達数人と、毎日、当たり前のように正法寺の山門をくぐり、お寺で道草をして帰るのが日課だったそうです。家族の方々も、お寺で道草をしているのを知っておられ、子どもの帰りが遅くなるのを、安心して待っておられたといいます。現在は、社会的に防犯意識が高まっていることもあり、道草をしながら帰る小学生をほとんど見かけなくなりましたが、昔のよき時代の風景に、ほっかりとさせていただいたことでした。
昔の子どものように、安心して道草ができる環境というのは、とても幸せなことだと思います。道草が許されない環境というのは、それだけ危険が多いということでしょう。これは、人生を歩む上においても、大切な視座であるように思うのです。
仏教というのは、本来は、仏道と呼ばれてきました。仏様の教えというのは、人生における道標になるものだからです。人生は、私の知らない間に始まっていました。気がつけば、人間としての命が恵まれ、ここにいたのです。何のために生まれ、何のために生きるのか、この根本的な問題に対する答えを、私達は持ち合わせていません。人生を歩むと言いましても、何を目的に、どちらを向いて進んでいけばいいのか分からないのです。そもそも、自分の現在地もはっきりしていないのが、人間境涯の姿でしょう。まさしく、私達は、生まれながらにして迷っているのです。
その迷っている私達に、道標を与え、人生という道を歩むのを導いてくださるのが、仏様の教えです。仏様は、罪悪深重の凡夫というのが、私の現在地であることを教えてくださいます。そして、悟りという清らかな仏様の境地を目指して進みなさいと、私に進むべき方向性と目的地を教えてくださるのです。しかし、どのように進んでいけばいいのか、これもまた、迷っている者には分かりません。そこで、仏様は、正しい方向性をもった正しい行いを、一つ一つ丁寧に教えてくださっています。それが、仏道における行です。仏様が教えてくださる正しい行いを、一つ一つ教えられた通りに修めていくことを修行といいます。そして、教えられた通りに修行をし、悟りという目的地に向かって、まっすぐに歩んでいくのが正しい人生の歩み方なのです。
本来、仏道において、道草は許されません。なぜなら、悟りへ至るまでの人間境涯の世界は、危険がいっぱいだからです。道草をすれば、二度と本道には戻れない、そんな危ない世界なのです。ですから、仏道修行者には、強靱な肉体と精神力が求められます。でも、誰もが、強靱な肉体と精神力を持っているわけではありません。この世界には、優等生と劣等生がいるのです。法然聖人や親鸞聖人は、仏道修行に耐えられない、ついつい道草をしてしまうような弱く愚かな劣等生が、正しく生きることのできる道を、仏様のみ教えの中に求められたのでした。
浄土真宗では、天台宗や真言宗で実践されているような厳しい仏道修行は教えません。しかし、親鸞聖人は、修行がない仏道を喜ばれたのではありません。如来様から、お念仏という真実の行が恵まれたことを喜ばれたのです。如来様が、私に願われる行いは、たった一つ、お念仏を申すことだけです。お念仏を申すことに、必要な条件や決まりはありません。落ち着いた心持ちの時は、落ち着いた心持ちのまま、怒りの心が起こっているときは、腹が立つまま、悲しみに包まれているときも、喜びに包まれているときも、そのまんま、いつでもどこでも、お念仏が申せる人生を歩みなさいと教えてくださるのです。それは、如来様ご自身が、お念仏という言葉になって、私に寄り添ってくださるからです。いつでもどこでも、私がお念仏を申すところに、如来様がご一緒です。如来様が、私のお念仏となって、私の危うい人生を、お浄土まで一緒に歩んでくださるのです。
私達は、お浄土へ向かって帰って行く、掛け替えのない仏の子です。この仏の子は、昔の小学生のように、よく道草をします。やってはいけないことと分かっていながら、ついつい腹を立て、ついつい愚痴をこぼしたりします。正しくまっすぐお浄土に向かって生きていけない私です。しかし、お念仏が申せる人生なら、道草もまた、如来様とご一緒です。道草の中で、気づかされ育てられる世界をいただくのです。親鸞聖人は、私達に、安心して道草をしながら、お浄土へと帰っていける人生が恵まれていくことを教えてくださいました。
道草をすることもまた、私の大切な人生なのです。お念仏を申せる日々を大切にさせていただきましょう。