先日、施設に入所されているある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

「夫婦で施設に入所させていただいて、一年になりました。私達が入所させていただいている施設には、正法寺の御門徒さんも、何人かおられます。いつもお寺の御法座で一緒だった〇〇さんもご一緒です。〇〇さんとは、食堂での夕食が終わり、部屋に帰るとき、エレベーターでよく一緒になります。そのとき、二人で、よくお寺での思い出話を話すのです。そして、いつも『お互い元気になって、またお寺でお会いしましょう』と言って別れるのです。」

とてもにこやかに、施設での様子をお話しくださったことでした。施設に入所されても、正法寺の御門徒同士が、「お寺でまた会いましょう」と言葉を交わしてくださっていることが、とても嬉しく、ありがたく聞かせていただいたことでした。

 誰もが、老病死を抱えています。老病死を必ず迎えていく私にとって、人生で何が残っていくのでしょうか。蓮如上人の『御文章』の一節に、次のようなお言葉があります。

「まことに死せんときはかねてたのみをきつる妻子も財宝も、わか身にはひとつもあひそふことあるへからす。されは死出山路のすえ、三途の大河をはたゝひとりこそゆきなんすれ。」

死んでいくときには、普段、頼りにしていた家族も財産も、何一つ、自分に寄り添ってはくれません。代わりに死んでくれる人も、私の死を分かち合ってくれる人もいないのです。まして、財産など、死を前にしては、まったく無力です。誰もが例外なく、丸裸になって、たった一人、死の世界に墜ちていくのです。これが、私達が抱えている命の根本的な大問題であり、この問題の解決の道が説かれていくのが、仏様のみ教えなのです。

 人生は、例えるなら、小学生の夏休みのようなものです。小学生にとって、長い夏休みは、ワクワクがいっぱいです。夏休みは、いっぱい楽しんでこそ、価値があります。人生も、いっぱい楽しんでこそ価値があると思っている人は、多いのではないでしょうか。しかし、夏休みには、必ず終わりがあります。四十日間という期限があるのです。そして、四十日間の夏休みには、宿題が課されています。勝手気ままに楽しむだけの夏休みは許されません。四十日という期限内に、課された宿題をしなければならないのです。宿題をしないまま、勝手気ままに夏休みを過ごしただけの小学生は、夏休みの終わりに涙を流さなければなりません。また、必ず迎える二学期は、よりいっそう苦しまなければならないでしょう。人生も、楽しみだけを求め続けてはいけないのです。必ず終わりがあるのです。しかも、人生は、夏休みとは異なり、いつ終わるか分かりません。それは、明日、突如として訪れるかもしれないのです。そして、人生にも、克服すべき課題、宿題があります。その宿題を、お釈迦様は「人生は苦である」とお示しになり、親鸞聖人は「生死出ずべき道を求めて」と御生涯をかけて向き合われ、蓮如上人は、「後生の一大事を心にかけて」と多くの方に投げかけていかれたのでした。

 人生における、この宿題に取り組んできた方々は、老病死を抱える思いのままにならない苦しみの人生が、そのままありがたいものとして喜んでいける世界をいただいてこられたのです。そして、親鸞聖人が歩まれたお念仏の人生は、一人でこの宿題に取り組む道ではありません。阿弥陀如来様が、お念仏となって、常に私に寄り添い、宿題に取り組む私を、正しい解決へと教え導いてくださる道です。

私達、浄土真宗のみ教えをいただく者にとって人生とは、自らの楽しみにふけるだけの世界ではなく、悲喜交々のご縁の中で、仏様に育てられていく念仏の道場なのです。

 お寺にお参りをし、自分が抱える命の根本的な問題と向き合い、仏様のお言葉に耳を傾けていくことは、人生の宿題に取り組んでいくことに他なりません。宿題が終わった小学生の夏休みが明るいように、お寺にお参りをし、人生の宿題に取り組んできた人の人生もまた、明るいのではないでしょうか。「生まれてきてよかった」と、老病死を抱えながら、私にしか生きることの出来ない掛け替えのない人生を、心から尊いものとして喜べる世界を、仏教は、教えてくれます。そして、その喜びを、一人ではなく多くの仲間達と分かち合える場所が、浄土真宗のお寺なのでしょう。

 「お寺でまた会いましょう」、そんな喜びを分かち合える日々を、私達も大切にしていきましょう。