明けましておめでとうございます。本年も、お念仏薫る中に、悲喜交々の日々を有り難く頂戴して参りましょう。

 さて、先日、ある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。ある時、小学生のお孫さんが「人は、死んだらどうなるの?」と尋ねてきたというのです。それに対して「お浄土に生まれさせていただくのよ」と答えられたそうです。すると、お孫さんが「僕は地獄やな」とつぶやいたというのです。小学生のお孫さんは、軽い気持ちでつぶやいたのかも知れませんが、改めて、人の生死について考えさせられた会話だったということでした。

 「人は、死んだらどうなるの?」という問いは、本来、人間なら誰もが例外なく抱えている根本不安です。多くの命がある中で、人だけが、自分自身が死んでいくことを自覚しているといいます。この死の自覚から生まれてくる人間らしい営みが、宗教というものなのです。

 二十世紀を代表するドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは、人間存在の本質を「死への存在」という言葉で表現しています。これは、人間は、いつか死ぬ存在だという意味ではありません。最初は、死がなかったような私が、年を取ってから死に近づいていくということではないのです。ハイデッガーは「人間は生まれたときに、すでに死ぬだけに十分な年を取っている」と言っています。生まれたばかりの子どもでも、死の資格は、九十歳の人とまったく同等にあるということです。死は、若い人や健康な人を避けるわけではありません。人間は、死に向かって生まれ、死は、生といつも一緒にあるのです。自分の死と向き合うことは、自分の生と向き合うということです。逆に、自分の死を覆い隠そうとするところには、本当の意味で自分の存在と向き合う営みは、決して生まれてはこないということなのでしょう。死を抱える人間存在への問いは、小さな子どもも抱えていく人間共通の根本不安なのです。

 この問いに答えることができるのは、本当の宗教だけです。親鸞聖人が歩まれた浄土真宗のお念仏の道も、この問いに対する親鸞聖人の答えだと言えるでしょう。親鸞聖人は、ご自身の死を、死という言葉ではなく往生浄土という言葉で表現されていかれます。親鸞聖人は、死ぬ身であることを悲しまれたのではなく、仏様の世界に生まれていく身であることを喜ばれたのです。これは、死が不気味で悪いものではなく、死の中に合掌していける明るく尊い世界があることを教えてくれています。

 日本を代表する哲学者であり俳人でもあった大阪大学名誉教授の大峯顕先生は、プラトンが書き残したソクラテスの問いを、ある本の中で紹介されています。死ぬことが悪いことだと思って疑わない世間の人々に対して、ソクラテスは問います。「君たち、死んだ後は悪いとどうして知ったんだ?」と。ソクラテスは続けます。「死後の世界というものが悪いところだということを、君たちはいったいどこから知ったんだ。だって君、死んだこともないのにどうしてそんなことが分かるんだ。まだ行ったこともない世界をどうして君は悪いと決めつけるんだ。」さらにソクラテスは続けます。「それは、君が知らないことを知っているかのように言っているだけだ。それは、無知にも関わらず知者であるかのように振舞っている君の驕り高ぶりだ。」

 大峯先生は、このソクラテスの言葉を引用しながら、「人間というものは、どんな無知な人でも驕り高ぶりがあるようです。無知でありながら、自分を決して無知だとは思っていない。私は、これでいいんだという驕り高ぶりです。それを仏教では我見といっているわけです。全然何も知らない人でも、人生というのはこんなものだという、そういう我見をもっています。仏の教えを聞かないというのも、一種の驕り高ぶりだと思います。」とおっしゃっておられます。

 まもなく親鸞聖人の御正忌報恩講をお迎えいたします。凝り固まった我見の中で、自分の生と死を決めつけてしまうところに、人間の愚かさがあるように思います。自分が死すべき身であることは、小学生でも知っている問題です。しかし、その問題ときちんと向き合える人は、そんなに多くありません。私は、死んで地獄にいくのでしょうか?消えて無くなってしまうのでしょうか?私たちが考える世界には、本当の安心がありません。

生と死を抱える私自身の存在を尊いものとして喜んでいかれた親鸞聖人のご遺徳を偲び、その道を私自身が大切にいただいていく年に一度のご縁が、御正忌報恩講です。根本不安の解決は、人任せにはできません。一人ひとりが、大切にお参りさせていただきましょう。