先日、ある女性の方から、お寺にお電話をいただきました。正法寺のホームページに掲載している「住職の日記」を読んでくださり、住職に相談のお電話をしてくださったのです。相談内容は、亡くなった息子さんの往き先についてのことでした。

 母親にとって我が子は、自分そのものです。我が子の悲しみや痛みは、そのまんま母親の悲しみになっていきます。我が子の幸せは、そのまんま母親の幸せになっていくのです。死という現実は、その愛しいわが子を、無残にも母親から奪っていきます。死の向こう側は、手の届かない不気味な闇のような世界が広がります。死んだ人間は、どうなっていくのでしょうか?こちらの世界に残るのは、お骨だけです。お骨は、その人の体の一部でしかありません。心を通わせ、名を呼んでいた、あの子そのものは、消えてしまったのでしょうか?その答えを、私たちは、持ち合わせていません。命というのは、私を超えた営みです。私には、不思議としかいいようのないものです。それにも関わらず、人は傲慢にも、命について分かったような態度をとります。

 日本を代表する哲学者であり、大阪大学名誉教授でいらした大峯顕先生は、「心というものは、始めから体を超えている」と言われています。大峯先生は、西田幾多郎博士が二十世紀前半の最大の哲学者であったと評価したフランスのベルクソンの主張を根拠に、十八世紀頃から主張され始めた唯物論に真っ向から反対されています。脳という物質が、心を生み出しているのであり、脳が無くなってしまえば、心も無くなってしまうという考えが唯物論の主張するところです。しかし、ベルクソンは、脳の機能が破壊され失語症になっていった娘さんを通して、脳が破壊されても、心は破壊されないことを主張していきます。心は、脳が作り出しているものではなく、心そのものが働いていると言うのです。

 人間存在のすべては、物質からできており、その物質が破壊されれば、何も無くなるという唯物論者達の主張は、本当のことでしょうか?大峯先生は、死後の世界があるかないかは、人間の理性では判断のできないものであり、私達に言えるのは、「分からない」の一言に尽きると仰っておられます。この「分からない」という素直な態度に戻らなければ、仏法というのは、聞こえてこないのです。

 愛する我が子を亡くした母は、その子を形作っていた物質だけを見て悲しんでいるのではありません。母は、我が子の物質を愛したのではないのです。その子そのものの命を愛したのです。あの子は、どこへいってしまったのか?今、あの子は、どこでどうなっているのか?人は、この「分からない」という絶望的な悲しみの中で、仏様の真実のお慈悲に出遇っていくのです。先立った愛しい人は、深い悲しみと一緒に掛け替えのない仏縁を恵んでくださる尊い方でもあるのでしょう。

 親鸞聖人は、八十五歳頃に「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」という和讃を作っておられます。「小慈小悲もなき身にて」というお言葉からは、人間の愛の限界、人間の愛の手の及ばぬ世界に直面した親鸞聖人の絶望が伝わってきます。しかし、その悲しき人間の愛が救われていく道があるというのです。それが、「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」というお言葉に現れています。

 どれほど純粋に我が子を愛しても、純粋であればあるほど、その愛は大きな絶望を生み出していきます。人間の悲しき愛には、救いがありません。しかし、その人間の愛の手の届かないところにこそ、如来様の大悲は確実にさしのべられているのです。親鸞聖人は、如来様の大悲に身をゆだね、お念仏を申すところに、人間の愛の限界を超えてゆける道があることを教えてくださったのです。

 仏に成るというのは、小慈小悲どころか大慈大悲の身にさせていただくということです。我が子ひとりでさえ、真実の幸せに導くことのできなかった私が、あらゆる人々、あらゆる悲しみを抱く命を、自由自在に真実の幸せに導くことのできる身にさせていただけるのです。如来様の願いの中で、お念仏を申す人生を歩むというのは、そのような仏に成っていく大道を歩ませていただくことなのです。それは、すえとおらない人間の愛の悲しみが救われていく道でもあります。

 如来様の願いを聞き、お念仏申す中にこそ、愛おしい命と、また会える世界が必ず開かれていくのでしょう。人の愛を超えた大きなお慈悲に導かれる日々を大切にさせていただきましょう。