お念仏を勧める
住職の日記先日、ある御門徒宅でのご法事でのことです。お勤めとご法話が終わり、参詣者の方々にお焼香していただいている時、まだ四歳か五歳の小学校入学前の男の子が、お父さんと一緒にお仏壇の前に座りました。お父さんがされることを見ながら、上手に真似をして、お焼香をし、合掌していました。その時です。後ろに座って、お孫さんの様子を見守っておられたお爺様が、「なもあみだぶつと声に出してみなさい」と、お念仏を申すことをお勧めくださったのです。男の子は、恥ずかしそうにしながら、結局、声に出してお念仏できないまま下がってしまいましたが、大変尊いご縁をいただいたことでした。
親鸞聖人が、法然聖人からいただかれ、ご自身の御生涯の中で確認していかれた浄土真宗という仏教は、お念仏を称えることを中心とする仏教です。法然聖人は、そのことを専修念仏(せんじゅねんぶつ)という言葉で教えてくださっています。専は、専門店の専です。ただ一つということです。修は、修得の修です。修めるということです。ただお念仏一つだけを修めていく人生を歩みなさい、と教えてくださったのが、法然聖人の専修念仏というみ教えです。親鸞聖人は、そのみ教えの真実性を、ご自身の厳しいご生涯の上で実践し確認していかれ、法然聖人の上では明らかにされていなかった様々な真実を明らかにしてくださいました。
その一つが、「他力の念仏」という真実です。親鸞聖人は、念仏を称えるという一つの行為の中に、「自力の念仏」と「他力の念仏」との二種類があることを明らにしてくださっています。自力の念仏というのは、念仏を自分の行いと見なし、唱えることを自分の実績と見ていくものです。念仏を、どれだけ一生懸命数多く、まじめに唱えたかを通じて、自分の努力が、仏様に評価されることを目指す生き方です。私達にとっては、非常に分かりやすい教えですが、親鸞聖人は、このような教えは、仏様の本意ではないと言われます。
仏様の本意は、「他力の念仏」にあると言われます。他力の念仏とは、仏様の働きによって称えられている念仏です。念仏を口にすることは、簡単なようですが、実際には、どれだけの人が、素直に念仏を口にできるでしょうか。仏様から、お念仏を申しなさいと教えられて、そのまま素直にお念仏が申せるほど、私達の心は、清らかではありません。私にとって意味のないもの、また、意味の分からないものは、仏様のおっしゃることでも、反発し、押しのけていこうとするのが、私達なのです。そんな私が、仏様の教えを聞き、お念仏を口にするようなことがあれば、これは、当たり前のことではなく不思議なことです。親鸞聖人は、私が、お念仏を口にすることは、自力ではなく、不思議な仏様の働きによるものだと教えてくださいました。仏様は、私に、切にお念仏をしてほしいのです。その仏様の切なる願いが、私の上に実現しているのが、お念仏を称えている私の姿です。
そもそも、なぜ、阿弥陀如来は、私にお念仏を申すことを願われたのでしょうか。自力の念仏を教える人々は、誰にでもできる簡単な易しい行いだからだと言われます。愚かな私のために、難行ではなく易行を選んでくださったところに、阿弥陀如来のお慈悲を味わっておられます。しかし、親鸞聖人は、そうは見ておられません。お念仏は、愛情深い親が、愛しい我が子の名を呼ぶ慈しみの呼び声であり、子どもが、その純粋な親の愛情に応え、親を親として慕う子どもの呼び声でもあると言うのです。お念仏を申すことを願われているのは、誰よりもあなたを愛し、けっして見捨てることのない本当の命の親がいることに気づいてほしいとの願いだと、親鸞聖人は味わっていかれました。それは、お念仏そのものが、お慈悲そのものであり、仏様そのものであることの発見でもあったのです。
人生は、誰にとっても厳しいものです。自分にしか分からない、誰もがそんな痛みや悲しみを経験していかなければなりません。人の親は、どれほど我が子を想おうとも、我が子の心をすべて汲み取っていくことはできません。しかし、命の親は、私の痛みや悲しみを、すべて汲み取ってくださいます。けっして一人にはさせないと、お念仏は、私に届いてくださったのです。お念仏を申せる人生は、如来様のお慈悲のまっただ中に、喜びも悲しみも抱かれていく人生なのです。
そんなお念仏を、私に勧めてくださる方もまた、私のことを誰よりも大切に思ってくださる方でしょう。お念仏を申せる身の尊さを喜び、また、大切な人にお念仏を勧めていくことのできる幸せな日々を大切にさせていただきましょう。