大人数のご法事と縁起
住職の日記先日、久しぶりに三十人以上の方々が集まるご法事のご縁をいただきました。コロナ禍以降は、葬儀も、ほとんどが家族葬となり、ご法事も、たくさんの親戚が集まることが少なくなりました。社会全体の高齢化もありますが、家族や親族、地域の方々との繋がりが、次第に薄れていく社会になってきたように思います。
久しぶりにご縁をいただいたそのご法事では、故人のご兄弟、ご主人のご兄弟、お子さんはもちろん、お孫さん、曾孫さん、甥・姪の方々にいたるまで、故人とご縁のある方々が、三十人以上一同に集まっておられました。ご自宅には参詣者全員が入りきらないということで、お寺の本堂でご法要をお勤めされ、そのままお寺の門徒会館を使用されて、お斎をご準備されました。お斎の席では、一人ずつ、自己紹介と故人との思い出が披露されました。故人との思い出を、涙ぐみながら話される方もおられました。先立たれた故人を中心に、多くの方が、温かく繋がり合えた、とてもありがたく尊いご法事のご縁をいただいたことでした。
仏教の根本思想の一つに「縁起(えんぎ)」というものがあります。「縁起」というのは、「縁って起こる」という意味ですが、あらゆるものは、あらゆる関係性の中で成り立っていることを教えるものです。これは、「支えあって生きていきましょう」と支えあうことの大切さを教えるものではありません。「現実に今、あなたは、あらゆるものと支えあって生きているのですよ」と、現実の私の有り方を教えるものなのです。
現代は、個人の権利をとても大切にするようになりました。あらゆる人の人権が保障されるようになったことは、人を大切にできる良き時代になったともいえます。しかし、その反面、あまりに個人の権利をお互いに主張し過ぎるがために、人と人との繋がりが、だんだん希薄になってきているようにも思います。たくさんの人が集まる大都会で生活しながら、孤独感を深める人が多くいるというのも、そのことを顕著に表している現実です。
仏教で苦しみの原因とされる煩悩というのは、自分の都合を最優先にして生きようとする心です。自分の我欲を満たすことに必死になっていくと、自分以外のものが、敵になっていきます。自分の都合を邪魔する可能性のあるものは、みんな敵です。実は、それが地獄の鬼の正体なのです。自分の都合を最優先にして、我欲を貪るような生き方をする人は、周りに鬼を増やしていき、孤独感を深め、苦しみの中に沈んでいくのです。仏教において、地獄の世界とは、その人の生き方の前に厳然と作られていく世界として説かれていきます。地獄に堕ちるという現象は、おとぎ話ではありません。煩悩だけで生きる者の前には、厳然と地獄の世界が広がっていくのです。
それに対して、縁起の道理を悟っていく世界は、自分がどれほどの人や命あるものに支えられ、生かされてあるのかを実感していく世界です。あらゆるものとの繋がりの中で、自分の存在を確認していきます。「あなたのおかげで、私がある」と感動していく世界です。そこには、「ありがとう」という言葉が溢れていきます。周りに仏様や菩薩様の化身が増えていき、自分もまた、周りのもののために尽くそうという心が芽生えてきます。今の自分が、どれほどの善意によって支えられてあるのか、どれほど幸せ者であるのか、そのことを実感して生きていくことを、正しい生き方として教えてくださったのが、お釈迦様なのです。
親鸞聖人も、弟子の唯円に次のように語られたことが『歎異抄』というお書物に記されています。
「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと」
命終え、仏様に成らせていただいたなら、あらゆる命を救うことのできる身と成らせていただきます。しかし、親鸞聖人は、あえて「まづ有縁を度すべきなり」とおっしゃるのです。家族・親族等の方々に、まず寄り添うことのできる身と成らせていただくことを喜んでおられるのです。これは、親鸞聖人が、人が抱える「情」を大切にされていた表れです。私たちは、愛情や友情を通して、お釈迦様が教える縁起の世界に出会っていくのでしょう。
情がなくなる世界は、機械のような冷徹な世界です。情を通して、ご縁を大切にできる温かい人間らしい日々を大切にさせていただきましょう。