九月中、お寺の掲示板に、次の法語を掲示させていただいていました。

「聞いた仏法が 時々じわっと 邪魔に感じてくれば もうホンモノです」

 このお言葉に関して、数人の方から同じご質問をいただきました。それは、「教えが邪魔になることが、なぜホンモノなのですか?」というものです。

 親鸞聖人が尊敬された中国の曇鸞大師は「非常の言は常人の耳に入らず」というお言葉を残されています。人間同士の当たり前の価値観の中に生きている人には、人の常識を超えた仏様の真実の言葉は、なかなか耳に入らないという意味です。仏教の言葉というのは、大昔から、なかなか人の耳に素直に入らないものだったのです。しかし、真実は、偽りを揺り動かしていくのです。偽りは、真実を求めているからです。意味が分からない言葉でも、何か引っかかるなという言葉は、私に大切な何かを教えようとする真実の働きによるものでしょう。法語に触れて、あれこれ思いを巡らされているお姿は、如来様のお育ての中にある尊いお姿を表しているように思います。

 「教えが邪魔に感じる」というのは、どんなことを意味しているのでしょうか。仏様のみ教えが邪魔に感じるというのは、仏様の教えを敵にし、仏様の教えを尊いものとして受け入れていない姿に思えます。これのどこが、ホンモノなのでしょうか。しかし、昔から「ケンカするほど仲がいい」という言葉もあるように、邪魔に感じるというのは、無関心ではないということの表れでもあるのです。人の関係性が本当の意味で壊れるのは、絶縁した時です。これは、お互いが完全にお互いのことに関して無関心になることです。ケンカをするというのは、まだ相手に対して関心を持ち、相手に私のことを分かってほしいと、お互いに願いを持っている状況とも言えます。

 教えが邪魔になる人は、第一に、教えを聞いたことがある人です。仏教に無関心で、聞く気もない人は、そもそも邪魔に感じることもありません。邪魔に感じる人は、教えを意識している人なのです。第二に、仏様の教えは、私にとって必ずしも心地のよいものだけではないということです。むしろ、真実というのは、偽りの世界で繕っている者にとっては、時に残酷なものなのです。人は、「いつまでも若いですね」というような優しい言葉をかけてくれます。その言葉を聞いて、嘘と分かっていても、顔がにやけてしまう私がいます。しかし、仏様は、そんな偽りの言葉はかけてくれません。「確実に老けている、確実に間もなく死んでいくんだ」という不都合な真実を教えてくださるのです。耳が痛いですね。また、腹が立って人に怒りの言葉を投げつけたくなる時が、人間なら誰しもあるはずです。しかし、仏様は、「腹を立ててはならない、どんなことがあっても人を傷つけてはならない、怒りにまみれた汚れた言葉を使ってはならない」と教えてくださいます。怒りに占領されている人にとっては、このような仏様の言葉は、邪魔以外の何物でもありません。しかし、怒りに占領される中で、仏様の言葉を邪魔に感じている人は、怒りの中でさえ、仏様の教えの言葉を意識している人でしょう。

 実は、これこそが、仏様の教えを聞いている人の姿なのです。教えを聞くというのは、知識として、ただ興味本位で聞くのではありません。お寺は、カルチャーセンターではないのです。教えを聞くというのは、教えられた通りに、人生を受け止め、教えられた通りに実践しようとすることです。私というのは、本来、煩悩に突き動かされ、自分の都合が満たされる世界が最高の幸せだという幻想を追い求め、地獄に向かってまっしぐらに進もうとする凡夫です。その私に、仏様の教えの言葉は、邪魔になってくださるのです。邪魔になって、地獄まっしぐらな私の行く手を阻んでくださるのです。

 教えの言葉は、私に人生の方向転換を促してくださる大きな力になってくださいます。煩悩を抱える私にとって心地の良い言葉だけを聞いて頷いていくのでは、仏様の教えの言葉を、煩悩色に染めているだけです。私にとって邪魔になるような言葉、耳が痛いような言葉をかけてくださる方こそ、私のことを本当に慈しみ悲しんでくださる方なのです。仏様は、いつでも、私に本当のことだけを教えてくださるのです。必ず浄土に生まれるんだ、けっして見捨てることのないあなたの本当の親がここにいる、これも本当のことです。  日々の日暮らしの中に、仏様の言葉が、時々じわっと響いてくる、そんな慈しみ深い仏様と一緒の生活を大切にさせていただきましょう