死への不安
住職の日記先日、保育園の保護者の方から、子どもが、死ぬことについて不安がっているというご相談がありました。テレビで、人が死ぬ映像を見て、自分も同じように死んだらどうしようという不安を抱いたというのです。死ぬことが怖いという子どもの訴えに対して、大人は、どのように応えればいいのでしょうか?保育園では、どのように子どもたちに死について教えているのでしょうか?というお母さんからの切実なご相談でした。
園長である住職が、その子どもさんと直接お話をさせていただきました。六歳になる男の子でした。保育園では、毎朝、お勤めとご法話の時間があります。普段から、み仏様と親鸞様のお話をなんとなくでも聞いてくれています。いつでもどこでも、み仏様がご一緒であること、それは、生きている時だけでなく死んでもご一緒にいてくださること、毎朝、お称えしている南無阿弥陀仏は、み仏様が大丈夫と呼んでくださっているみ仏様の呼び声であること、死ぬこともまた、み仏様の世界に生まれていくという大切な意味があること、などなど、子どもの表情を見ながら、ゆっくり慎重にお話をさせていただきました。
住職の話に、何度も首を縦に振りながら素直に聞いてくれていました。抱いていた死への不安が、どこまで和らいだのかは分かりませんが、男の子から笑顔が出たことを確認して、お話を終えさせていただきました。おそらく、すぐにこの不安から解放されることはないのかもしれません。しかし、子どもの頃に抱いたこの命の不安が、彼にとって、仏様に出遇っていくかけがえのないご縁になってくれることを願わずにはおれません。
子どもというのは、大人がドキッとするような敏感な命の感覚を持っています。本来、誰もが死んでいくことに大きな不安を持っているはずです。しかし、大人は、それを上手に誤魔化す術を身に着けているのです。解決のできないことを気にし続けられるほど、人間社会は、甘くできていません。考えても答えの出ないものに固執するよりも、目の前の生活を優先させるのが、普通の大人の姿です。しかし、命についての子どもの真剣な問いかけに対して、誤魔化すことしかできない大人であるなら、それは、恥ずかしいことではないでしょうか。人は、長生きすればいいというものではありません。長く生きたのであれば、長く生きたことの責任を果たさなければいけません。子どもに大切なことを教えることができる大人になれているかどうか、本来それを誰もが問題にするべきなのでしょう。
現在、八十歳代や九十歳代の方々は、子どもの頃、おじいちゃんやおばあちゃんに手を引かれて、お寺の法座に一緒にお参りをしていたことを、よく聞かせていただきます。それは、昔の人々が、子どもに命の問題とその解決の道があることを、日常の中で自然と教えようとしていた姿なのではないでしょうか。
龍谷大学名誉教授で本願寺派勧学の浅田正博先生は、『私の歩んだ仏の道』というご著書の中で、宗教を持つことについて、次のように仰っておられます。
「宗教は、電車のつり革に似ているといわれます。・・・人生に急ブレーキがかかった時、あるいは急カーブを切った時には、思わず宗教に救いを求めようとします。その時には、どの宗教に救いを求めれば良いかなど考える余裕はありません。自分の手の届く範囲において宗教のつり革をつかむのです。・・・弱いつり革であれば、それを持つと同時につり革もろとも床面にたたきつけられます。自分を十分に支えることのできるつり革でなければ、つり革としての意味がありません。宗教も同じで、真実の教えでなければ自分を支え尽くすことができないのです。・・・自分の手の届く範囲に自分をしっかりと支えてくれる宗教的つり革を用意しておく必要があると思うのです。」
普段、誤魔化すことのできている問題も、誤魔化すことのできない状況が必ず訪れます。生老病死は、例外なく、どんな人間にも必ず訪れていくからです。そして、それは、私の思いもよらないところから、ふいに突然襲ってくるものなのです。その時に、自分のそばに自分そのものをしっかりと支えてくれる真実のみ教えがあるかどうかが問題です。しかし、それは、自分の力では用意できないものなのです。私達が今、仏法を聞かせていただき、仏様のお心を喜ぶ身にさせていただいているのも、私の幸せを願い、仏法を聞かせようとしてくださった多くの先人の方々の尊い願いがあったからなのでしょう。
聞かせていただいていることの尊さを味わいながら、次代の人々の幸せを願い、その人々のそばに仏法を用意していけるような、大人としての責任を果たす日々を大切にさせていただきましょう。
