浄土真宗と御恩報謝
住職の日記今年も、多くの皆様のご報謝の中で、親鸞聖人の御正忌報恩講が、無事勤まりました。本当に、尊く有難いご縁でした。
「報謝」という言葉は、「御恩報謝」という言葉を略したものです。この「御恩報謝」というお心は、浄土真宗の旗印のようなものです。しかし、この御恩報謝というお心が、近年、全国の浄土真宗寺院の中で、伝わりにくくなっている現状があるようです。一部の寺院では、御法座や掃除などで、ご報謝くださった御門徒の方々に、その対価として金銭をお渡しになるという状況もあると聞きます。これは、大変深刻な事態です。親鸞聖人が九十年のご生涯をかけてお示しくださった浄土真宗というみ教えが、まったく別物に変質してしまっていると言っていいでしょう。
宗祖の御命日の法要を報恩講と呼んでいくのも、それが御恩報謝によって成り立つものだからです。他の仏教各ご宗旨では、宗祖の御命日の法要は、開山忌と呼び、浄土宗でさえ、報恩講とは呼んでいません。
親鸞聖人が、その厳しい九十年のご生涯をかけて明らかにしてくださった阿弥陀如来の働きは、私の今ここに現実のものとして働いてくださっているものです。阿弥陀如来という人間境涯の中にはありえない清らかな慈しみが、私の今ここに働いてくださっていることを、親鸞聖人は、単なる言葉だけでなく、その生きざまの上にありありと証明してくださいました。親鸞聖人にとって仏様とは、私を裁くものではなく、私を一人子のように深く慈しみ悲しんでくださる親のような存在なのです。阿弥陀如来という真実の親に出遇っていくとき、人は、自ずと御恩報謝の心を起こしていきます。
親鸞聖人がご往生されて数十年後、直弟子の唯円という方が、親鸞聖人が遺されたみ教えが異なるものに変質していくことを歎かれ書かれた『歎異抄』という書物があります。その中には、唯円が、直接、親鸞聖人から聞いたお言葉として、次のようなお言葉が書き記されています。
「聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを・・・」
「聖人のつねの仰せ」というのは、親鸞聖人が、日頃から常々仰っておられたということです。つまり、唯円は、このお言葉を、親鸞聖人から何度も聞かされたということなのです。それは、阿弥陀如来が五劫という果てしない時間を悩み苦しみ抜いた理由は、この親鸞一人を助けようとしたことにある。阿弥陀如来をして、それほどの時間を悩ませた私とは、どれほど罪深い存在であり、同時に、どれほど掛け替えのない大切な存在なのかという慙愧と歓喜の思いの吐露です。
この親鸞聖人の味わいの中に、御恩報謝の源泉があります。御恩というのは、私の力を驕っているところには、けっして生まれてこない心です。自分一人の力で生きてきたように錯覚している人には、親の恩は分からないでしょう。そこにあるのは、自分への驕りであり、恩知らずの浅ましい心だけです。親鸞聖人という方は、自分のことを微塵も信じていなかった方です。ただただ、阿弥陀如来のお慈悲の中に、愚かな自分自身の存在意義を確認する日々を歩まれたのです。それは、御恩をしみじみと味わい、感謝の思いが溢れていく毎日だったことでしょう。
自分の都合を貪ろうとするところには、必ず損得勘定が生まれます。煩悩が生きる力となっている凡夫は、自分にとって得にならないことは、やる気が起こりません。それが正しいことであっても、自分にとって損になることを嫌がるのが凡夫の姿なのです。弥陀の命を懸けた五劫思惟の願いの中にあることを喜んでいく者には、自分の都合よりも大切なものがあります。それは、私のために起こされた弥陀の願いに応えていくことです。私たちは、仏様からすでに、お念仏のお救いというとてつもない御利益をいただいているのです。利益を得るために「する」のではありません。大きな御利益をすでにこの身にいただいているから「させていただく」のです。親鸞聖人のみ教えとその生き方を仰ぐ浄土真宗のお寺は、数知れない御門徒の方々の「させていただく」心によって護持され発展してきたのです。ここに、法の城とも呼ばれる浄土真宗寺院の尊さがあります。
阿弥陀如来の純真な願いに抱かれる中に、自分にできる精一杯のことをさせていただく、そんな仏恩と感謝に満ちた尊い日々を大切にさせていただきましょう。
