浄土真宗と臨終来迎
住職の日記先日、ある御門徒さん宅で、次のようなお話を聞かせていただきました。
「昨年、福岡の大宰府にある九州国立博物館で法然展がありましたね。正法寺様でも、十月に研修旅行で行かれたんですよね。いかがでしたか?私も、昨年、福岡に住んでいる娘と行ってきたんです。色んな貴重なものを拝見させていただきましたが、仏様がお迎えに来られる綺麗な絵が、たくさんありましたね。娘が、その絵を見ながら、『おじいちゃんは、どんなお迎えがあったんやろう?きっと豪華なお迎えがあったんやろうねぇ』って言うんです。あれだけお念仏を喜んでいた父ですから、やっぱり豪華なお迎えがあったんでしょうか?どうなんでしょう?」
昨年、十月から十一月にかけて九州国立博物館で開催されていた『法然と極楽浄土』と題した特別展は、浄土宗開宗八五〇年を記念して、浄土宗が主催をしたものでした。展示されていた貴重な様々な資料は、浄土宗の総本山である知恩院をはじめ、全国の浄土宗寺院の全面協力によるものばかりでした。それゆえに、浄土宗の側から受け止められている法然聖人の姿が、よく表れていた展示会だったと思います。
知恩院を総本山とする現在の浄土宗は、正確には浄土宗鎮西派と言います。開祖は法然聖人ですが、鎮西派の派祖は、弁長上人という方です。主に九州地方を活動の場とされていたので、この方のグループを地名から鎮西派と呼ぶようになりました。徳川家康が知恩院の檀家総代になったことにより、浄土宗鎮西派は、江戸時代に飛躍的に拡大しました。
この鎮西派を含め、法然聖人が開かれた浄土宗は、法然聖人がご往生された後、大きく九つのグループに分かれていきます。弁長上人の鎮西義、隆寛律師の多念義、幸西大徳の一念義、証空上人の西山義、長西上人の諸行本願義、信空上人の白川門徒、湛空上人の嵯峨門徒、源智上人の紫野門徒、そして、親鸞聖人の大谷門徒です。この中、現在まで消えずに残っているのは、弁長上人の鎮西義と証空上人の西山義、そして、現在の浄土真宗である親鸞聖人の大谷門徒の三つだけです。そもそも、なぜ法然聖人がご往生された後、浄土宗が、九つものグループに分かれていったのかといいますと、それは、同じ法然聖人のみ教えを聞いていても、それぞれ九通りの受け止め方があったからです。その中でも、鎮西派の弁長上人と浄土真宗の親鸞聖人は、もっとも異なる受け止め方をされているお二人なのです。
その違いを特徴的に表すものの一つが、臨終におけるお迎えです。命終わっていく時、阿弥陀如来様がお迎えに来てくださるという思想は、法然聖人以前よりあったものですが、法然聖人以後は、鎮西派の流れの中で、特に強く主張されていきます。
鎮西派において、お念仏というのは、阿弥陀如来様から与えられた宿題のようなものとして説かれます。この人生において、お念仏を唱えることに、どれだけ真面目に取り組んだのかが問われます。阿弥陀如来様のお慈悲によって、私のために選ばれた宿題です。真面目に取り組まなければ、落第します。阿弥陀如来様によるお迎えは、合格通知のようなものです。このお迎えが、救われた証拠になっていくのです。
しかし、親鸞聖人は、このような考え方をきっぱりと否定していかれます。親鸞聖人において、お念仏は、阿弥陀如来様によって課せられた宿題ではありません。そもそも、私の行いでもありません。阿弥陀如来様そのものが、言葉の仏様となって、私の上で働いている姿なのです。私という存在は、本来、念仏を口にすることも、仏様に手を合わすことも、仏様のみ教えを聞くこともしようとせず、自分の都合を貪り、その都合を邪魔するものに腹を立てる根性しか持ち合わせていません。そもそもが、お浄土に生まれるような尊さなど微塵も持ち合わせていないのです。そんな私が、曲がりなりにもお念仏を口にし、仏様に手を合わせ、仏様のみ教えを聞き頷けているのなら、それは、当たり前のことではなく不思議なことが私の上で起こっていることなのです。それを親鸞聖人は、「他力不思議」というお言葉で表していかれます。
お念仏は、お浄土に生まれていくための手段ではなく、阿弥陀如来のお慈悲が私の上に溢れている姿だったのです。臨終のお迎えを待つまでもなく、すでに私は、阿弥陀如来のお慈悲のど真ん中に生かされているのです。豪華なお迎えよりも、厳かに整えられ導かれていく尊い人生が、今ここに恵まれていくことを喜ばせていただくのです。
生きている今、お念仏となって溢れてくださる仏様に遇わせていただきましょう。
