先日、あるネット記事に「コケイン症候群」という病気を抱えた男の子とその家族について紹介されていました。「コケイン症候群」という病気は、通常の五倍程度の速さで老化が進む病気で、発症は、五十万人に一人と言われているそうです。希少難病のゆえ、治療法の研究が進んでおらず、コケイン症候群の患者の平均寿命は、十五歳~二十歳だと言います。急激な老化の進行により、十歳になる前には、老人性の聴覚障害、視覚障害、歩行障害などが現れるといいます。通常は、八〇年かけて、ゆっくりと受け入れていく老化現象を、コケイン症候群の子どもは、僅か十年程度で受け入れていかなければならないのです。お母さんの「嬉しいはずの子どもの誕生日が、不安を重ねる日でした。また誕生日がきちゃったとか。こんなことができていたのに、これはもうできなくなっちゃたんだなっていう・・・」という言葉が、印象的でした。

このご家族は、コケイン症候群の男の子と一生懸命向き合う中で、人が生きるということの現実に直面していきます。この男の子は、十六歳で命終えていきます。寿命が短いというのは、不幸で可哀そうなことと、私たちは考えがちです。しかし、このご家族は、この男の子に対して、誇らしいという感情を持っていきます。早くに訪れる別れは、悲しみを伴います。まして、我が子を見送る悲しみは、非常に深いものがあります。しかし、その悲しみの中に「可哀そう」という感情はありません。ただただ「あの子が、私達の子どもでよかった。生まれてきてくれてありがとう。」という感謝の感情しかなかったといいます。

それは、十六年という通常よりも非常に短い年月の中で、生老病死を抱えながら懸命に命を生き抜いた男の子の姿に、頭が下がる思いがあったからでしょう。生老病死を抱えながら生きる人の姿は、本来、尊いものなのです。

仏様は、あなたの命、あなたの人生は尊いものだと教えてくださいます。自分では、その意味は、よく分かりません。しかし、コケイン症候群の男の子の人生から、ご家族の方々が、人が生きることの尊さを教えられたように、仏様は、生老病死を抱えながら生きる私の人生に、合掌してくださっているのです。

今から十五年ほど前ですが、入院されていたある御門徒の方のお見舞いに訪れた時のことです。大変お念仏を喜ばれていた方でしたので、「お念仏申されていますか?」とお声をかけさせていただきました。その時は、お体をベッドから起こすことも難しいほど、衰弱されておられました。ご年齢のこともあり、このまま、元気になられずに命終えていかれるかもしれない、という思いがあったのです。その時、苦しそうな声で仰ったお言葉が、思い出されます。それは、「如来様が、いつも私を拝んでくださるから、ありがたいです・・・」というお言葉でした。老病死の真っただ中で、仏様から拝まれている私に出遇っておられたお姿に、頭が下がる思いがいたしました。

生老病死は、人間の根本苦です。お釈迦様は、「人生は苦である」と教えられました。しかし、苦しみを抱えるというのは、可哀そうで不幸なことではないのです。苦しみを抱えながら懸命に生きる命だからこそ、尊いのではないでしょうか?仏様の眼差しは、私を可哀そうなものではなく、尊く大切なものとして見ておられるのでしょう。その仏様の眼差しに気づくと、人生における様々な苦しみも、大切なものに思えてきます。

人は、自分の眼差しの中でしか、自分を見ていないことが多いです。自分の思い通りにならない苦しみに襲われた時、自分の人生が、つまらなく空しいものに思われてきます。自分で自分を見捨ててしまうのが、私達凡夫の愚かさでしょう。お寺にお参りをし、仏様のお話を聞かせていただくというのは、自分ではない仏様の眼差しに出遇わせていただくのです。仏様は、生老病死を抱えた思い通りにならない私を、決して見捨ててくださいません。なぜなら、そのままの私の命に、合掌してくださっているからです。仏様が、見捨ててくださらないなら、私も私自身を見捨てるわけにはいきません。苦しみや悲しみを抱える私もまた、大切な私なのです。

命恵まれたものにできる仏様への御恩報謝は、いただいた日々を、一生懸命生かさせていただくことです。阿弥陀如来の眼差しに出遇った者は、浄土という進むべき方向性が恵まれていきます。迷いは、子どもの道草のようなものです。私達は、道草をしながら、本当の親の元へ帰っている途中なのでしょう。仏様の眼差しの中で、日々を大切にさせていただきましょう。