先日、あるご法事のお斎の席でのことでした。住職の隣に座られた八十六歳になる男性の方が、次のようなお話をしてくださいました。

 「今日は、ありがとうございました。最近、ああいうご法話を聞かせていただくと、胸に沁みるんですよ。私も、浄土真宗の門徒ですが、若い頃は、お寺にお参りしようとも思いませんでしたし、法事でご住職のご法話を聞いても、『早く終わらんかなぁ』ということばかり考えていました。それが、七十歳、八十歳と年を重ねてくると、今まで聞いても何とも感じなかった話が、だんだんと響いてくるようになったんですよ。今はね、お寺でお話を聞くのが楽しみなんですよ。」

とてもにこやかにお話されるお姿の上に、阿弥陀如来様のお慈悲の働きを大切に味わわせていただいたことでした。

 お寺には、若い世代の方よりも、お年を召された方の方が、たくさんお参りされます。それは、今も昔も変わらない光景ではないでしょうか。

 蓮如上人のお言葉に、次のようなものがあります。

「わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。」

仏法は、若い時から聞き味わっていきなさい。年を重ねれば、歩くこともできなくなり、眠たくもなる。だから、出来るだけ若いうちから仏法を聞きなさい。というお言葉です。蓮如上人も若者に対して、今から仏法を聞いていきなさいと諭しておられるのです。これは、蓮如上人の時代でも、若者は、積極的に仏法を聞かなかったことを表しているように思います。また一方で、蓮如上人は、「宿善(しゅくぜん)」という言葉を使って、仏法が聞けることの尊さを教えてくださっています。

 「当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。」

「宿善(しゅくぜん)」というのは、善を宿すと書くように、善なる働きが、私の上に宿っていくことです。親鸞聖人の上において、本当の善とは、阿弥陀如来様の働き以外にはあり得ません。阿弥陀如来様のお慈悲が、私に宿ることを宿善というのです。

 愛おしいわが子に、親は、みんな願いをかけます。それは、幸せになってほしいという願いです。しかし、「親の小言と冷酒は後で効く」ということわざがあるように、子どもは、親の意見を、そう素直に聞けるものではありません。子どもにも、我があるからです。本来、親の小言は、親の我から出たものではありません。子どもを愛する心から出たものです。子どもの幸せを心から願い、子どもの悲しみを一緒に背負っていく、その純粋なわが子を思う親心は、後でじわじわと効いてきます。人の心は、粘土細工のようにはいきません。人の心が育っていくには、時間がかかるのです。純粋な慈しみと悲しみが、その人を少しずつ育てていくのです。宿善というのは、そんな阿弥陀如来様の純粋な親心に育てられていくことを表す言葉なのです。

 蓮如上人が、無宿善と言われるのは、反抗期の子どものような状態を意味しています。親の言うことが素直に聞けない状態です。そのような状態の人に、無理やり仏法を聞かせても逆効果だと言われるのです。「誹謗のもとゐとなるべきなり」というのは、仏法を嫌い、仏法を非難するという罪を作らせてしまうということです。

 仏様の教えの言葉に素直にうなづいていける状況は、仏様のお慈悲のお育ての中で起こっていく不思議なことなのです。そこには、人間の計らいが入る余地は微塵もありません。そのことを蓮如上人は、「まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。」と仰っておられるのです。

 若い時から仏法が喜べることは、それはそれで、大変ありがたいことですが、若い時には喜べなかった仏法が、年を重ねて喜べるようになったことも、大変ありがたいことです。それだけの年月をかけて、如来様がけっして見捨てず、その人を慈しみと悲しみをもって育て続けてくださったからです。

仏法を大切に聞かせていただく中に、不思議で尊い如来様のお育ての中にあることを喜ばせていただきましょう。