先日、ある御門徒のご法事で、子どもの頃、毎日、おじいちゃんと一緒に、お正信偈をお勤めしていたというお話を聞かせていただきました。子ども頃、おじいちゃんに促されて、毎日、夕食の前にお仏壇の前で、お正信偈をお勤めしていたというのです。それが疑問だったとか、嫌だったということはなく、ただ、しなければならない日常の大切なこと、という感覚だったそうです。それが今、大人になってみると、とても懐かしく温かい風景として心の中に残っているというお話でした。

 数十年前までは、三世代が、お仏壇のある家で一緒に生活をし、仏法を中心とした日常生活が営まれていたご家庭が、たくさんあったのでしょう。それが今、懐かしい風景になってしまったところに、現在の浄土真宗がおかれている厳しい現実があるように思います。

 教えというのは、知識として聞くものではありません。聞いた人の生き方の上に現れてくるものでなければなりません。朝夕、お仏壇の前に座り、合掌し礼拝する、そして、聖典を拝読する、これも、教えが人の上で生きている姿なのです。逆に、教えを聞いて知っていても、自分の都合のままに生活をしているだけであるなら、そこには、教えは存在していません。人の都合だけが渦巻く世界は、やがて地獄・餓鬼・畜生と示される三悪道という惑い苦しみが満たされていく世界を作り出していくのです。

 経典を声に出して読むことを読誦(どくじゅ)といいます。中国の唐の時代に活躍された善導大師は、阿弥陀如来の浄土に往生するための正しい行いとして、読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五つを挙げておられます。『仏説無量寿経』や『仏説阿弥陀経』などの浄土の経典を声に出して拝読する、阿弥陀如来やその浄土の姿を心を清め集中して思い描いていく、阿弥陀如来を心から敬い礼を尽くし頭を下げていく、南無阿弥陀仏と声に出して称えていく、阿弥陀仏の功徳を讃えてお供えをさせていただく、この五つの行いが、阿弥陀如来の浄土に往生していく正しい行いであると言われるのです。この五つの行いの中心は、南無阿弥陀仏と口に称えていく称名です。他の四つの行いは、称名を助けていく行いとして、善導大師は位置づけられていきます。この善導大師のみ教えを、親鸞聖人も受け継いでいかれました。

 浄土真宗は、他力本願の教えだから、何もしなくても大丈夫という誤解がよくされます。確かに、天台宗や禅宗のような厳しい自力修行は行いません。しかし、浄土真宗は、何もしなくても仏様がお救いくださるという堕落した仏教ではないのです。浄土真宗でも、経典を声に出して拝読し、お念仏を称え、礼拝し、お供えもさせていただくのです。しかし、この行い一つ一つは、私がする行いではありません。私がさせていただく行いなのです。

 「する」と「させていただく」の違いは何でしょうか。それは、私が先か如来様が先かの違いです。親鸞聖人は、ご自身を罪悪深重の凡夫と言われ、愚禿と名のっていかれました。浄土に往生するような正しい行いをするはずのない人間であると、ご自身を見つめていかれたのです。正しい行いをするはずのない人間が、お念仏を口にし、仏様を礼拝し、経典を読誦する、これは、当たり前のことではなく不思議なことです。不思議としか言いようのないことが、私の上で起こっているのです。

 親鸞聖人は、そのことを「仏智不思議」と喜んでいかれました。不思議というのは、単に分からないということではありません。人智を超えた手のつけようのないものとの出会いの中で生まれてくる深い感動です。親鸞聖人は、浄土に往生するために一生懸命、念仏を称え、仏様を礼拝し、経典を読誦されていたのではありません。するはずのない私が、不思議にもお念仏を称えさせていただき、仏様を礼拝させていただき、経典を読誦させていただいている、ここに、私を見捨てず育て続けてくださった阿弥陀如来のお慈悲の働きを味わっておられるのです。親鸞聖人の行いは、阿弥陀如来のお慈悲に抱かれる中に、深い喜びからさせていただく御報謝の行いなのです。

 浄土真宗の御門徒の方々が、大切にされてきた朝夕の勤行も、阿弥陀如来のお慈悲に抱かれる中でさせていただく御報謝の行いとして大切にされてきたのです。そこには、しなければならないという義務感や切迫感ではなく、すでに確かなお慈悲に抱かれている安心と、させていただくという感謝の思いが溢れていたはずです。一緒にお勤めをした子どもの中に、温かいものが残っていく、それが、なによりもそのことを物語っているでしょう。

 私にかけられた阿弥陀如来の願いを大切に聞かせていただき、お慈悲に抱かれる中に、させていただく日々を大切にしていきましょう。