先日、本願寺山口別院において、山口教区仏教賛歌のつどいが開催されました。山口県内の浄土真宗本願寺派のお寺で活動しているコーラスグループが一同に集い、日頃練習し味わっている仏教賛歌を、それぞれに披露し讃え合いました。正法寺のコール芬陀利華も、昨年から練習してきた二曲を披露させていただきました。

 西洋音楽であるコーラスは、キリスト教の聖歌隊を起源とします。大谷探検隊を組織したことでも有名な本願寺第二十二代の御門主である鏡如上人(大谷光瑞様)が、西洋に視察に行かれた時、キリスト教の教会で出会われた聖歌隊の歌の美しさに感動され、本願寺教団に取り入れたとも言われています。仏様のお心を現代人が慣れ親しんでいる西洋音楽で表現していく仏教賛歌は、明治時代、近代化を目指した本願寺教団の一つの特徴でもあるのです。

 宗教と音楽とは、切り離すことのできない密接な関係にあります。言葉で表現しつくすことのできない宗教的世界が、音楽によって表現されてきたのです。仏様のお言葉に節をつけて声に出していく仏教のお勤めも、音楽です。お釈迦様がご在世の頃、すでに仏弟子達は、お釈迦様のお言葉に曲や節をつけて歌にしていたと言われています。古代のインドでは、言葉を文字に起こすことは、言葉の神聖さが失われると考えられていました。宗教上の聖なる言葉を文字に変換することは、避けられてきたのです。最初期の仏教は、人々の口伝えと記憶によって伝えられてきました。仏様のお言葉に曲や節をつけたのも、記憶しやすいようにという理由もあったでしょう。しかし、そこには、言葉を超えた世界が音楽によって表されていくことになります。

 お釈迦様ご在世の頃、数人の仏弟子が集まり、お釈迦様のお言葉に曲や節をつけて歌っていました。すると、近くを歩いていたインド象が、その歌声と音楽の美しさに感動して、立ち止まったという逸話が伝わっています。音楽によって、動物である象にも、仏様の世界が感動とともに伝わったという逸話です。仏様のお心は、人間だけが理解できるものではありません。お経には、「十方衆生」とあらゆる生きとし生けるものに慈しみをもって、仏様が呼びかけられていることが説かれています。仏様の清らかなお心は、あらゆる生き物に響いていくものです。仏教音楽というのは、言葉とは異なる形で現れ出た仏様のお心なのです。

 日本仏教においても、仏様のお言葉に節や音階をつけて奏でる声明(しょうみょう)が大切にされてきました。蓮如上人のお言葉の中にも、「仏法は、つとめのふしはかせもしらで、よくすると思うなり。つとめのふし、わろきよしを、仰せられ、慶聞坊をいつもとりつめ、仰せられつる・・・」というものがあります。お経をお勤めするときの、節回しや音の高低を詳しく知らないまま、適当にお勤めすることがないよう、いつもお弟子の慶聞坊に注意されていたというお言葉です。お勤めは、お経の言葉の意味そのものを伝えるよりも、音で仏様のお言葉を奏でることによって、そのお心が伝わるものなのでしょう。

 住職も、若い頃、お勤めの勉強をさせていただいていた時、先生から、よく言われていた言葉があります。それは、「お勤めは、御門徒の方々から上手と言われているうちは、まだまだだと思いなさい。御門徒の方々から、ありがたいと言われるお勤めを目指して精進させてもらいなさい」というものです。単なる歌であれば、上手い下手を問題にするだけでいいでしょう。しかし、お勤めは、上手い下手が問題ではないのです。そこに、仏様のお心が響いているかどうかが問題です。それには、お勤めをする者自身が、仏様のお心に感動し、仏様のお心を喜ぶ身にならせていただかなければなりません。

 また、お勤めは、多くの人々と一緒に集まってさせていただくところに大切な意味があります。これは、仏教賛歌のコーラスも同じです。同じ仏様のお心を喜ぶ人々が、同じ感動を共有しながら、同じ仏様の響きの中に抱かれていくのです。そこには、それぞれの我は打ち消されていき、ただ仏様のお心が響いていくのです。お寺に集まり、みんなでお勤めをしたり、仏教賛歌を歌うことは、普段の生活の中にはない、聖なる領域に身を置かせていただく大切な意味があるのです。

 人の煩悩に振り回されるだけの日常は、虚しいものです。お寺でのお勤めや仏教賛歌の響きの中に、身を置かせていただく日々を大切にさせていただきましょう。